自覚について

12月21日 優子ちゃんへ
優子ちゃん、私は今日、「自覚」について考えたから聞いてほしいと思う。自覚ってなんだろうか、と思って。優子ちゃんは「あ、私自覚した」って思ったことある?初めてはいつだった?
私は、自覚した、と思ったときを、あまり覚えていない。ということは、私はまだ暗い中で目をつぶっているんだろうか。そうじゃない気がする。
自覚、って何を自覚するんだろうと思ったけど、やっぱり「私が私であること」の自覚であるように思う。世間一般で言われているような「自覚」「自覚しなさい!」みたいなことばは、自覚ではなくで、「自分でしたことの責任は自分のこととして処理しなさい」ということ、いわゆる「気づきなさい」のことで、しかもそれは自分の外にあること、自分がしてしまったこととか、外部への影響の原因であることを知れ、恥を知れ、みたいなことだろうか。(そもそも本当の気づき、って、じぶんでしかできないよね)
「私が私であること」これはとても難しい問いかもしれない。とくに、一歩外に出るとそれはきゅうに不確定になってしまう。特に現代は。現代の多くの若者は。「外に出る時の私」とみんなが好きな「本当の私」みたいなものがとてもかい離しているから。
いわゆる「アイデンティティ」みたいなことにつながる話だと思うけれど、私はこのアイデンティティという言葉、本当のワタシ論が大嫌い。アイデンティティって「これが私」ってピンポイントでいえることなんだろうか。
私はそうではない、と思っていて、つまり「これも、これも、この私も、私だ」って言っているところの私であり、その反省的な営みを自発的にできているか否か、なのではないかと考えてみたんだけれど、どうだろうか。
同上日
ゆりちゃんへ
いっぱいいろんな問題ができてきて、混乱している状態のワタシをワタシは自覚してる、なう。(わず?)←ココ、ワラウ、ポイント
最初にゆりちゃんがふれている、「他者の目」からの自覚のことだけど、全く本来自覚ではない、と言いたいけれど、諸々の問題から明言を避けているように思える、けど、明らかに言ってるよね、これ、ゆりちゃん。
ゆりちゃんの静かな明言に同意です。それは自覚ではありません。(日常的言語用法の巻き起こす、大きな誤解がまたもや甚だしくて泣ける。)
そして、それはアイデンティティとも異なる、という意見にも同意です。「本当のワタシ」という言葉で人々が語ることは、主に趣味趣向、または、
「悲しいときは悲しいって言いたい!」
「怒ってるんだから怒った顔をしたいし、文句も言いたい!」
「上司の顔色ばかりうかがって精神がしんだ!」
などの感情のことであるからして、これをアイデンティティと結びつけると、大変困った事態になることはもはやだれの目にも明らかジャン。
1歳の時の私の感情と10歳になった私の感情はほぼ確実に異なるものであるけれども、ということは、生まれて最高でも10年で人類全部のアイデンティティーは崩壊していることも、もはや確実。私のアイデンティティも、ゆりちゃんのアイデンティティももう何度も崩壊と再構築を繰り返して、もはや一定じゃないアイデンティティなど無価値、といった状態(非常に残念)
と、いうことは残るは、我を自覚する、とは残った大きな幹としての自分が対象となることが証明された、しかも勝手に、きわめて自然に。他人の目によって、そして趣味や感情の移り変わりによっても左右されることのない、人が人として持つ幹とはなんなのか、と考えることによってたどり着く「私」、これが自覚の最初の瞬間なんじゃないかなぁ・・・
いつも思うけど、私たちってめっちゃ正しいよね。